荻原ものさん(女性・40代後半)
平成16年10月23日午後17時56分突然床の下からドーンという音と共に家が縦揺れたのである。「地震だ」とは思ったが揺れが長く感じるほどの強烈な縦揺れに、立つ事も這って歩くこともできずその場にうずくまるしかできない程の体験した、新潟県中越地震で被災した私の体験談である。
新潟県中越地震被災…生まれて初めての恐怖
今まで地震を体験したことがないという人はいないと思う。
が、この日はじめて縦揺れの地震を体験して下から上に突き上げるような揺れを何度も何度も感じたのである。
テレビボードから落下したテレビ、部屋の壁にひびが入り、棚に置いてあったものが落ち自分の頭を守ることで精一杯、2階には子供が悲鳴を上げ助けに行くことすらできない状態が短い間隔で長い時間縦揺れが続き、身動きがとれない自分ではどうすることもできない状況だったのを今でも覚えている。
歩こうにも体を支えきれず、四つん這いで這おうと思っても、体が倒されてしまう揺れを感じながら「家が倒れる」そう思った。
瞬間に「地震が収まった間を見て逃げないと死ぬ」と思い子供たちを呼び逃げる準備をする間テーブルの下にもぐって頭を守るように伝え、私はパニクっていた。
外も安全ではない
車で逃げようと思い外に出た瞬間何度目かの縦揺れが始まり、道路が波をうってるのを初めて見たのである。石垣も揺れていて外に出たからといって安全ではないと感じたのを今でも覚えている。子供たちを車に乗せ、私は家に入る恐怖を感じながら家に戻り、毛布、飲み物、食べ物を車に積んで電線のない広い市役所の駐車場に逃げたのである。
途中コンビニに寄ってみたが既にパンや缶詰、カップラーメンなど口に入れられる食べ物全てと飲み物もなく、閉店間際のコンビニのように店内のあらゆる物が既にない状態だった。スーパーはこの状況の中、店内の飲料や食品を格安で駐車場で販売してくれていて助かった人は大勢いたと思う。
信号機などの電気関係は全て止まり、事故がないように駐車場に向かい、実家や姉妹に連絡をしようとしたが携帯電話も繋がらず車の中にいることしかできない私たちは途方に暮れ、車の中でラジオを聞きながら今の状況を把握するのが精一杯だった。
車の中にいても車が大きく揺れ、「このままこの駐車場の道路に亀裂が入ったら…」「道路が陥没したら…」という恐怖で落ち着かず地震はその晩止まることなく車も周りも揺れていた。
食べ物の確保
翌日、お菓子やちょっとした食べ物しか手元に残っていなかったのと、地震の間隔が前日より長くなったので「今のうちに何かしないと、このままだと食べ物がなくなる」と思い、一度家に戻って食べ物を探すことにした。幸いにも水道とガスは使えたので、鍋でお米を炊きながら卵焼きを作り冷蔵庫にある調味料を車に積んで家を離れた。
偶然にも何かのネットで鍋で米を炊くレシピを見ていたおかげでご飯を炊くことができた。
この時私は、「いざという時のために、電気やガス水道などがない状況でもできる術を身につけることは大事なことなんだと改めて感じた。
今でこそ防災グッズなどが売られているが、私が被災したときは防災グッズなどあまり目にしたこともなかったが自分で万が一のために備蓄しておくのは大切なんだと改めて思った。
救いだったのは、偶然にも地震があった当日、早めに夕飯を済ませていた為にその夜のご飯にはありつけていた。
時期的にも考えれば、まだ外は暖かく季節は秋なので暖房の心配や暑さの心配もないし、一日や二日お風呂に入らないと困るということもない。
ある意味地震の恐怖はあったがタイミング的に食べ物や飲み物以外で困ることがなかったのは唯一の救いだったかもしれない。
この日は晴れていて空には自衛隊の飛行機やらヘリコプターが飛び交い、道路には消防車やパトカーなどもひっきりなしに走っていた。子供はまだ状況が把握できていないのか車は窮屈で外に出たがっていたが「外に出て道路が崩れたら助けられないよ」といい我慢させていた。
そんな時に実家の妹から電話が入った。
逃げたい気持ちと恐怖心
「こっちは被害ほとんどなくて、家で過ごせるからこっち来なよ」私の住んでいたところは街中だったせいもあり、被害も大きく震度も6度強という震度7に近い震度ったのだが、実家の方は大きくても震度4だったとか。
実家の方は大丈夫と聞きひと安心したが、実家に行くまでの恐怖は付きまとう。
車を止めていた場所から実家に行くまでの所要時間は40分ほど。その途中には信濃川に架かる橋があるのだが、橋の長さは約900mもある。地震の影響で橋の途中が崩れていたら、橋を渡っている時にあの地震が来て崩れてしまったらという恐怖で行くに行けない。
「意を決して行くしかない」そう思い車を走らせた。
安心できる場所
車を走らせ、橋も無事渡ることができ信号機が止まっていたが警察が誘導してくれていたので安全に走行できる状態で、なんとか実家に着くことができた。
両親の顔を見てやっと落ち着くことができ、両親にも昨日のことを説明して「街中の方がひどい状況」を理解した。
実家の方は被害もなく、生活をする上でなんの支障もなく生活ができているようで年老いた両親を心配したが元気そうだったので安心することができた。
しかし夜は家にいると危険だということで近くの体育館で実家の地元の人たちが集まり夜を過ごしていた。
人との関わりや繋がりの温かみを被災を受けて初めて実感したのである。
当たり前のことが当たり前じゃなくなる
日頃から、電気やガス水道など生活をする上で欠かせないものがこの被災を経験して大切なものだと実感した。この当たり前にあるものが当たり前にあるというのは幸せなことなんだと痛感した。
食べ物がある、暖を取れる、お風呂に入れる、テレビを見る、たった一日だけだったがこれらのことが全て私にはなかった。
被災し実家で過ごしているその間、友人数人が心配してくれて連絡をくれた「ずっと電話がつながらなくて心配した」と。
「食べ物や飲み物に困ったら送るからなんでも言って欲しい」と友人からの温かい言葉に何度も感謝したことを覚えている。
現状高速道路や一般道路が分断され、新幹線も動かない状況の為に自衛隊から支給されるものや各自治体で食事を出すなどをしていたようだった。
子供を抱えながらこれからどうなるのかと何度も心配していたが、友人たちからの思いやりに少し救われた気がした。
被災後1ヶ月という長い間を実家で過ごし、やっと余震も落ち着いてきたので家に戻ることができた。
今でも些細な地震でも心臓がバクバクするほどの恐怖心が抜けずにいるが、今ではあの中越地震があったことで次に来るかも知れない防災に備える必要を感じた。
道路が分断され資源が止まってきた場合や貯水や食料の他に、暖房器具の見直しや火を使える手段の見直しに至っても、今ではできるだけ確保できるように日頃から気にかけるようになったのは言うまでもない。
同じ被災を経験しているあなたに伝えたいこと
不安の中、これからどうしたらいいのか悩むことはたくさんある。
だけど、自分ひとりで背負うこともなく周りの人と協力し合ったり助け合うことで生きていること実感し感謝をすることは大事なことである。
一人ではどうすることもできない事でも、周りの人と力を合わせる事がこれから先の意欲にもつながる。
自分ひとりじゃないこと、自分に負けないように頑張って欲しい。