恋愛・失恋

彼が既婚者として知っても別れられなかった30代看護師の話。電話占いに出会って不倫を終わらせるまで

彼が既婚者として知っても別れられなかった30代看護師の話。電話占いに出会って不倫を終わらせるまで

著者:麻衣(仮名)

 

とにかく朝、出勤するのが嫌でたまらなかった。

もともと朝が弱くて、冷え込んだ日などは特に、頭が働かない。賃貸アパートの部屋は寒く、晴れた朝などはまるで外のような気温になるが、その寒さを感じないほど、ぼんやりしている。

 

40歳を過ぎたら、少し夜更かししただけで、翌日まで疲れが残る。

前日に飲み会なんてあった朝は、もうひどいもの。
たっぷり化粧水を使って整えておかないと、ファンデが全然乗らないし、目の下のくまが、どんなコンシーラーでも隠せない。

髪はつやがなくてパサパサ。
看護師という仕事上、いつも束ねておくので、そんなに目立たないけど、ちょっといいバーで彼と飲むようなとき、髪をおろしても全然決まらない。

爪もなんだか白く薄くなってきた気がする。
仕事柄、ネイルを塗ることはないけれど。

罪悪感

30代だったあの頃は、もうやめようやめようと思っているのに、彼に誘われると、悩んでいたことなどすぐに忘れて、頷いてしまう自分が本当に嫌だった。

診察が忙しいときは、お互いのことを気にする余裕もないからいいけれど、患者さんが途切れて二人きりになったとき、どこを見たらいいのかわからなくなる。

たった十メートル離れたところには、彼の奥さんがいるのに、私と彼は秘密を抱えて、診察室に二人でいる。

罪悪感でいっぱいだった。

 

親は、もう娘の結婚をあきらめてくれたらいいのに、ときどき実家に帰ると
「つきあってる人とかいないの?」などと訊いてきた。

いるよ。奥さんいるけど。

いっそ、そんなふうに言い放ちたくなったこともある。

会うたびに年老いていく両親の白髪を見ていると、やるせなくなった。

 

親にも友達にも親戚にも同僚にも隠し事をしている。
そのことが、叫びだしたくなるほど辛かった。

誰にも何も聞かれない場所に行って、これ以上ないくらいの大声で、本当のことを吐き出したかった。

 

でも言えない。

彼のことがすごく好きだったから。
先が見えなくても、別れたくなかったから。

誰かにこの恋を知られてしまうということは、この恋の終わりと同じこと。

誰にも知られてはいけなかった。

 

町医者の二代目

彼は数十年前からある町医者の二代目で、私立の医大を出て、親が開いた小さな内科医院の副院長におさまった。

私が大学卒業後、ここで働き始めた頃はまだ先代の院長が存命で、診察室には院長親子と私の三人がいた。

医院にやってくるのは、診察を待ちながらおしゃべりするのが楽しみといった風情のおじいちゃん、おばあちゃんがほとんどで、みんな顔見知り。

診察はまったく緊張感がなく、世間話をしたあと、じゃあいつもの薬出しておくからね、と言っておしまい。
私でもできそうだった。

 

先代が亡くなったのは、もう五年以上前になる。

彼が院長になってしばらくは、新米院長としての責任感や緊張感が感じられた。
先代の人柄を慕って通う患者さんも多かったから、若い自分が受け入れられるのか、不安もあったのかもしれない。

実際、患者さんは少し減った気がしたけれど、誠実に仕事に取り組む彼に好感を持ち、以前と変わらず通ってくる人も多かった。

 

仕事にも慣れ、患者さんがあまり減らないことに自信をつけた彼には、余裕が見え始めた。

私は彼のひとつ年下で、テニスや音楽が趣味であるなど共通の話題が多く、話し相手としては最適だった。

患者さんがすく時間帯には、話も弾み、診察室に私たちの笑い声が響く。

私も、十年以上一人暮らしで、家に帰ると誰とも話さない生活だった。
彼と話す時間がとても楽しみになり、患者さんがあまり来なければいいのに、と思いさえした。

 

そんな毎日が、半年くらい続いた頃だろうか。

彼から受ける視線が、明らかに変わったのは。

接近

彼は診察の合間、情熱のこもった目で私を見るようになった。

彼が私を見つめているのがわかるので、彼のほうを見ることができない。
視線が合ったら、どんな顔をして、どんなことを言えばいいのかわからなくて。

 

そのうち、妙に触れる回数が増え始めた。

他人に近づかれると不快に感じたり、落ち着かなくなる距離をパーソナルスペースというが、彼はそこにどんどん入り込んでくる。

壁際に置かれた書類棚で書類を探していると、すぐ後ろに彼が立っていたり、注射の準備をしていると、体を寄せてきたり。

 

はじめはすごく戸惑った。

彼には恋愛感情を持っておらず、仕事の上司、気の合う話し相手という以上の存在ではなかったからだ。
私は彼が近づいてくると、別の仕事を思いついたように離れたり、唐突に世間話を始めたりした。

 

でも、嫌ではなかった。

大学時代からずっと付き合っていた人はいたけれど、最近は会う回数も減って、電話することもほとんどなくなっていた。

自然消滅は時間の問題だった。

自分の中で、新しい恋愛を始めたいと思っていたことは事実だ。

少しずつ少しずつ、彼に気持ちが傾いていく自分がいた。

 

そして、ある日彼からメモを渡された。休憩時間に見ると、彼の、少し乱雑な字で、こう書いてあった。

「21時にSANTEで」

心臓が跳ねた。

いつかこういうことが起きるんじゃないかという予感はあった。

彼の気持ちは明らかだったし、私も、彼と恋仲になりたい、もっと言えば、将来を語り合う仲になれるんじゃないかという期待さえあったと思う。

彼は医院を経営していて収入は申し分ないし、真面目な仕事ぶりは毎日目にしている。

医院に併設された、もとは院長夫婦が住んでいた広大な家に一人で住み、お手伝いさんを雇っていると言っていた。
もし結婚したとしたら、お手伝いさんは不要になり、私が仕事をやめて家に入ってもいいし、子どもがいないうちは、このまま一緒に働いても…

メモを見たあと、そんな妄想があふれ出てきた。

 

SANTEは、駅から離れたところにある一軒家バーだ。

不便な場所にあるので、タクシーで行かなくてはならない。
決して多くない収入の中から、タクシー代を出すのは楽ではないが、そこで過ごす彼との時間を思えば、気にならなかった。

SANTE

19時に仕事を終え、家に帰って着替えた。

仕事のときに着る白衣以外の姿で会うのは、初めてだ。

普段はオーバーサイズのニットにデニムとか楽な格好で過ごす私だが、35歳を過ぎても、体型は崩れていない。

久しぶりに出してきた黒のワンピースを着て鏡の前に立つと、すらりとしたシルエットに、我ながら心が躍った。

 

化粧を直し、髪を整えて、家を出る。

 

SANTEに行くのも初めてだった。
元彼とは、駅周辺でデートすることが多く、車でないと行けない場所に行くことはなかった。

タクシーに場所を告げて、ビニールカバーのかかった背もたれに体を預け、窓の外の夜景を眺める。
いつもはなんとも思わない自分の住む町が、その日は好ましく感じられた。

 

21時少し前にSANTEに着き、はやる気持ちをおさえて扉を開けると、薄暗い店内には、彼の姿が見えなかった。

ほっとしたような落胆したような気持ちで、カウンターの奥にいるマスターを見ると、私の顔を見て、カウンターから出てきた。

私とそう年の変わらなさそうなそのマスターは、驚いている私ににっこり笑い、店の奥へ案内する。
そこにある重そうな木製のドアを開けて中へ促され、バーの店内よりも照明を落とした部屋に入ると、そこに彼が一人で座っていた。

 

「来てくれてありがとう。待ってたよ」

 

背後でドアが閉まる音がし、私の心臓の鼓動が再び早まる。
ぎごちなくほほえんだ私に、彼が吹きだした。

 

「そんなに緊張しなくていいのに。今日も会ったでしょ」

「だって、いつもと違う場所だし、服も違うし…」

 

彼は淡いグレーの、一目で質の良さがわかるセーターに、張りのあるウールのパンツといういでたち。
カジュアルな服装を好む元彼とは違う上品な服装に、ときめきを覚える自分がいた。

 

「ここ、座りなよ。麻衣ちゃんにこれ飲んでほしくて、先に頼んでおいた」

 

テーブルを見ると、きれいなブルーのカクテルが、脚の細いグラスに注がれ、おさえた照明の繊細な光を反射してきらめいていた。

 

「僕の中で、麻衣ちゃんのイメージって、こんな色。
すごく高潔できりっとしてるんだけど、ちゃんと女性らしさもあって」

「そんな、高潔だなんて」

 

私は顔を赤らめる。

彼はそんな私を見て微笑み、自分のグラスを持ち上げて乾杯を促した。

グラスを合わせると、キン、と透き通った音が、私と彼との新しい関係の幕開けを祝っていた。

 

一年経って

仕事も恋も順調な一年が過ぎた。

もうすぐ、彼と付き合い始めた記念すべき日が来ようとしていた。

 

SANTEには、あの後もたびたび二人で待ち合わせ、奥の部屋でお酒を楽しんでいた。

マスターと彼とは、どうやら古くからの友達らしい。
お互い、くだけた言葉をつかう。
いつもピシッとした服装をする彼と姿勢のよいマスターとは、同じ雰囲気が感じられた。

 

SANTEに行くと、すぐに奥の部屋へ通されるので、私はマスターとほとんど話したことがない。
でも、初めてこの店へ来たとき、にっこり笑ってくれたので、マスターには好感を持っていた。

 

その日は私が先にSANTEに着いて、奥の部屋で彼を待っていた。

すぐに来るかと思っていたけれど、なかなか来ない。
追加の飲み物を注文すると、しばらくしてマスターがグラス片手に部屋に入ってきた。

 

「麻衣さん、このカクテルお好きですね」

 

彼が私のために注文しておいてくれた、あのブルーのお酒だ。
飲むたびに、幸せを感じる。

 

「あまりお酒は強くないけれど、このお酒なら何杯でも飲めそうです。おいしい」

「ありがとうございます」

 

マスターはあの感じのよい笑顔を見せた。
笑うと白い歯が並ぶ。

 

「麻衣さんは、今野内科の看護師さんだそうで。
剛、ああ見えて頑固だから、大変じゃないですか」

 

そのまま部屋から出ていくかと思っていたので、マスターが話を続けたことに少し驚いたが、マスターの笑顔につられて、言葉が出てきた。

 

「そんなことはないですよ。優しい方です。以前からのお友達なんですか?」

「ええ、小学校からの腐れ縁で。高校が別だったんですが、大学時代にまた遊ぶようになって」

 

彼と、このマスターとなら気も合うだろうな、と私は想像する。
二人とも穏やかで、羽目をはずさないタイプだ。

 

「剛は、真面目な学生でね。勉強ばっかりしてるから、俺が遊びに連れ出して、頭を柔らかくしてやらないといけませんでした」

 

私は声をあげて笑った。

 

「いいお友達ですね」

「だから、驚きましたよ。剛があなたを連れてきたときは」

「え?」

 

マスターは相変わらず微笑みを浮かべていたが、何か違和感があった。
先ほどまでとは、何かが違うような…

しかし、その違和感の正体がわかる前に、マスターの口から言葉が滑り出た。

 

「ご存知なかったですか?これはまずいことを言ってしまったかな」

「ええと、おっしゃる意味がわかりませんが」

 

マスターの目に、楽しむような光が宿っていた。
いたずらをする子どものような。

 

「剛はね、学生結婚してるんです。奥さんは、医院の隣に住んでますよ。
もちろん、剛と一緒に。子どもはいないみたいですけどね」

 

不倫…

 

頭がすっと冷えた。
胃の入り口に苦いものを詰め込まれたような感じがして、口に入れたカクテルを飲み下すのがやっと。

そのカクテルの深いブルーも、一気に色あせた。
手が冷たくなり、細かく震える。

 

「申し訳ない。嘘がつけないんです、俺」

 

マスターの笑顔は、もはや白々しいものにしか映らない。

 

「それに、あいつの奥さんとも友達なんです。剛が彼女を裏切るとは思わなかった」

 

私はやっとのことで、マスターをにらみつけた。
「奥さんと友達」という言葉で、彼と奥さんとこのマスターとの間に、何かあったんだ、と直感する。

 

「ああ、それと」

 

マスターは木製のドアに手をかけた。

 

「今日は急患で、剛はここには来られなくなったそうですよ。それでは、どうぞごゆっくり」

 

重いドアがゆっくりと閉まる。

一時間前まで、私が心から楽しみに彼を待っていた、この部屋。

この一年間、彼と私が会う入り口だった、あのドア。

今はまるで、囚人を閉じ込める錠つきの扉のよう。空しい恋に囚われた私。

 

一時間くらい、そうしていただろうか。

私はのろのろと腰をあげ、表に出た。マスターのことは、いちべつもしなかった。

ここに来ることも、もうないだろう。

そう思っていた。

 

しかし、私は自分の愚かさ加減を、翌日思い知ることになる。

 

「昨日はごめん。工藤さん、胸が苦しいって、18時過ぎにご家族から電話が来て」

 

いつもと変わらない彼の目を見たとたん、彼ときっぱり別れようという私の決心は瓦解した。

その日に限って患者さんは少なく、彼は昨日の埋め合わせのつもりなのか、とても優しい。

 

「麻衣ちゃん、顔色が悪いんじゃない?口数が少ないけど、体調が悪いのかな?少し休んでいてもいいからね」

 

そう言って微笑む彼の邪気のなさ。
昨夜聞いた話を問いただそうとする気にもなれなかった。

私はいつの間にか、完全に彼に囚われてしまっていた。
結婚まで考えた。

けれども彼は、私より先に、その相手を見つけていたのだ。

 

その日以来、原因不明の頭痛が私を苦しめた。
生理の周期も乱れがちになり、顔には吹き出物が出た。

仕事を休むことも増えた。
朝、頭では嫌がっているのに、身支度をする身体はスムーズに動く。
彼に会える期待にはずむように。

彼から誘われれば、SANTEにも行ったし、そのあとホテルにも行った。
私は彼から離れられなかった…

 

電話占い

友人にも家族にも悩みを打ち明けられない私の救いは、もはやネットの世界にしかなかった。

「不倫」「恋愛相談」などというキーワードで果てしなく検索を続けながら、インターネットにあふれる軽薄な言葉の海に溺れた。

 

その中で…

荒れ狂う海の中にさしこむ、ひとすじの光。

 

それは電話で相談できる、占い師だった。

 

占いなど初めてだったが、私の苦しみを打ち明けるのに、これほど適した人はいないと思った。
電話占いVの占い師さん。タロットに霊感を絡めて占う。

 

当然だが電話先の彼女は、私のことも彼のことも何も知らないから、なんでも話せる。

でも、知らないはずの彼の話し言葉までさらりと言い当てた。

 

完全に第三者の彼女が、タロットというごく客観的な手段で、私の悩みにこたえてくれる。
占いという救いを見出した気がした。

 

電話での占いは、私みたいな悩みにはぴったりだった。

彼女は優しいカウンセラーのようでもあり、悩みを打ち明けるうち気持ちは整理され…

話を聞いてもらうだけも癒された。

霊感タロットによって進むべき方向を見出され、出口の見えない部屋でうずくまっていた私の足は、ようやく歩き出した。

 

今、私は彼の経営する医院とは別の診療所に移り、元気に働いている。

 

彼と、別れられた。

 

SANTEというバーは、閉店したと聞いた。

 

相変わらず結婚の望みは薄いし、住んでいるアパートは、冬になると外みたいな気温になるけれど、もう頭痛はしないし、仕事も続けられる。

 

悩みは白髪が増えたことくらいだけれど、染めればいいし。
もし、再び深刻な悩みに突き落とされることがあったとしても、私はもうお守りを持っている。

スマホのブックマークに、私はそのお守りを見て安心を覚える。

私を救ってくれたあの電話占いのリンク。