PumpkinRideさん(女性・30代前半)
消しかけていた命の復活
私の命は、己によって消されそうになっていた。
もうこの世界に生存しているのが嫌になってしまったのだ。
当時の私は20歳。
20歳と言えば、お酒も解禁になり、学生や社会人として楽しい年頃。
私は、風前の灯だった。
精神が弱り果てていたのだ。
訳あって大嫌いな母親と兄貴。
信頼していた父親は、余命を言い渡されつつ、闘病生活。
父方祖父と同居していたが、息子が大病を患って、悲しみにふけっていた。
私は、パニック障害、及び、反復性鬱性障害を患っていたのだ。
これは、経験者にしか分からない苦しい精神疾患だ。
本当に辛く、毎日が死人の様だった。
でも、私は復活したのだ!
死人のように部屋に閉じこもり、何事にも怯えきっていた私が現在では変身を遂げている。
既婚。
2児の母親だ。
病院を受診するまでの道のり
この道のりが長かった。
なんせ部屋から出てこれなかったのだ。
自宅の庭にも恐怖のあまり出れなくなっていた。
酷い精神障害と身体症状を持っていた。
周囲の者や家族は、全く理解してくれなかった。
ただ、唯一父親は私の健康を祈りつつ必死に闘病生活を送ってくれた。
普通なら、「具合悪けりゃ、病院行け」って思われるでしょう。
そんな簡単じゃないんだよ。
行動する前に、病院へ行こうと思うだけで、様々な身体症状勃発。
精神病からくる身体症状がある人にしか分かりはしない心持だ。
震え、発汗、過換気症候群、吐き気、酷い眩暈、歩行困難。
精神病にならない人には、こんな症状予想できないであろう。
少なくとも私は、精神病で苦しむ人の気持ちがよーくわかる。
辛い、悲しい、だるい、死にたい、様々な感情が入り混じる。
私が病院へ初めて受診したのは、身体症状が出始めてから半年も経ってからのことだった。
周囲の対応が冷たい
気もちが悪くて内科にかかったことがある。
不整脈が出て呼吸困難で救急車で運ばれたこともある。
でも、周りの人たちは病気じゃないのに、何で?
気持ちの持ち様だ、シャキッとしないからだ、だらしないからだ、等と言われてしまう。
終いには、内科や外科の医師に、誰だって緊張すると脈は上がる、っと笑われる始末だった。
許せない、情けない、泣きたい。
夜中に体が痙攣をおこして、緊急外来に行ったことが何度もある。
過換気症候群も併発するのだが、そこでの医師の対応に何度も涙した。
「何かして欲しくてこんな深夜に緊急外来来たのだろうから、点滴でもしてく?」
「ははは、また貴方か。誰だって脈拍数だって上がるし、疲れれば気分も悪くなるから(笑)」
っという最悪の侮辱を受けた。
そんな対応って医師として間違ってるはずっと思いつつも…
父親以外の家族や、医師にも見放され、さらに精神的恐怖感を高めてしまった私だった。
やっぱり死ぬしかないなと思った。
父親の闘病生活を見届けたら、大きな川に入って最後にしようと決心していた。
実は身近に命の恩人が二人も!
近所に住んでいた幼稚園からの幼馴染と会うことがあり、現在の自分の状態を彼に話した。
家族以外に自分の身体の詳細を話したのは初めてだった。
彼は黙って話を聞いてくれて、時々訪ねてくれるようになった。
そうしている内に、死ななくてもいいかもしれないと思えることがあった。
父親とその幼馴染のおかげで、初めて精神科にかかることになった。
その精神科は自宅から車で45分程のところにある。
庭にも出れなかった私は、勿論車にも乗るのはかなりの恐怖感だった。
半ば無理やり車に乗せられ、両親が病院の駐車場から私を引っ張りながら院内に連れて行ってくれた。
病院への道中の私の身体は鉛のように身体が重く硬くなり、生きてる心地が全くしなかった。
酷い発汗と、震え、不整脈が酷かったのだけが鮮明に思い出されるのだ。
そのM病院は、精神科で有名な医師がいる。
私は、ソーシャルワーカーと面接をさせられた後に、その医師の診察にまわされた。
どうやって診察室までたどり着いたかは覚えていないが…
幼馴染のあの彼に話していたように素直に話せることができた。
精神科のその先生は完全に理解して、私を包み込んでくれるような感じだった。
幼馴染の次に私の恩人になったひとが、その医師だ。
今考えると、もっともっと早く受信すれば、もっともっと早い回復ができただろうと思える。
後は前を向くだけだった
受診した精神科で、初めて処方された薬を手にした。
手の上に乗せた錠剤2粒がガタガタ震えてしまう程だった。
担当医師は勿論、処方する薬の説明、副作用などをおしえてくれた。
でも、その副作用を過剰に心配するあまりに、口に入れた瞬間に吐き戻してしまった。
それから、薬を飲むことが恐怖になってしまい、毎日が戦いだった。
今思い返すと、笑ってしまうようなことなのだが、当時の私は死に物狂いだったのだ。
解決方法は、その薬をしっかり飲んで、次の受診日に備えることだと心のどこかで確信していた。
それがよかったのか、2週間ほどで薬を飲んでも吐き戻さなくなった。
その自分の前進ぶりに感動した。
それからは、精神状態の回復が目に見えて分かるようになったのだ。
一人で庭に出る練習から始めた。
カメラを片手に、庭の花や犬の写真を撮って、楽しむ方法を模索した。
犬の写真を撮り続けている内に、犬が私を心配していることに気づいた。
小さい時から一緒に散歩をして遊んでいた友達だったのだ。
それから、庭の中を犬にリードを繋いで歩く練習をした。
犬も尻尾を振り振りフリフリして喜んでくれた。
そうすると、家の門のちょっと先まで出てみようと考えるようになった。
前を向いてみると、意外と回復は遠いものではなくなっていた。
ほんの少しずつの回復だったが、ベールを1枚1枚捲るが如く生活に光が入ってきた。
私はあなたの気もち分かります
私は、あなたの気持ちよく分かります。
後退してしまう気持ち。
居なくなってゼロにしてしまいたい気持ち。
周りの普通の生活できる人が不思議に思える気持ち。
全部全部含めて分かります。
私が最大限に頑張ったのは3段階。
まず、幼馴染に話して病院にかかったこと。
2番目は、薬を飲んで症状を回復しようと試みたこと。
3番目は、怖すぎる気持ちをうまくコントロールして、犬の散歩までこぎつけたところ。
経験者だから貴方に伝えたいこと
貴方は、絶対誰かにとって必要であること。
精神科の医師は他の科の医師とは全然違うこと。
病院かかる勇気はいるけれど、少しでもいいから早く受診すること。
受診した精神科が合わなければ、医師を変えてもらったり、病院を変えてみてもいいと思う。
医師や病院が変わると、一から話すのが面倒なので、自分でメモを作っておくか、
病院に紹介状を書いてもらうかするとよい。
精神科に長くかかっていると、精神医療の福祉援助が受けられる可能性があることも知ってもらいたい。
細くてもいいから、自分以外の誰かと繋がっておくとよい。
実は、私の恩人の一人目の彼、幼馴染だった男。
現在は、私の夫なんです。
嘘みたいな本当の話なんです。
20歳の頃は、青春もなく過ぎ去って廃人の様だった私だ。
それが、今では既婚、2児の母親なのだ。
30代になった今でも同じ精神科医にかかっている。
幼馴染の夫と、その精神科医がいなかったら私の人生は終わっていた。
いつになるかはわからないけれども、必ず前を向く努力を重ねれば、光が射すことがあるのだ。
現在では、車の運転もできるようになった。
電車も何度も何度も練習して乗れるようになったのだ。
絶対に忘れてはいけないことは、貴方は大事な一つの命だっていうこと。
呼吸をしているだけで十分な価値があるのを知ってもらいたい。
私は心の底から、あなたの苦しみをわかっていますよ。
忘れないでほしい。