
言えない気持ち
著者:玉名凛子(仮名)
そういいながら仕事中にも関わらずルンルンで話しかけてくるのは、職場の同期、滝口桃だ。
小声でそっと給湯室の方に目を向ける。
昼休憩には少し早いが、積もる話も多いのでふたりでこっそり移動することにした。
私がこの会社に入社したのは、6年前。22歳で入社したので来年には三十路の仲間入りである。
福岡で生まれ育ち、大学も就職もそのまま福岡に決めてこの地に住み続けている。
大手製薬会社に就職できたのはラッキーだったが、転勤のない事務職採用なので、特に出世は望めない立ち位置だ。
「で、どーするの?」
6年前に意気投合してから、すっかり仲良くなった同期の桃は自分のことのように、腕組みをしながらこちらをじっと見ている。
「いや、どーするもこーするも…。
ただ仕事できる男性社員が一人帰ってくるってだけでしょ。
もう私には関係ないよ。」
最後の関係ないよ、という語尾が強くなってしまって自分の中に未練が残っているのではと不安になったがそれ以上考えないようにする。
「まぁね~…イケメンの既婚者が一人帰ってくるってだけだもんね~。
独身アラサ―の私達には関係ないか。よし、また合コン計画するからね!」
なんだか気を遣わせてしまったな、と申し訳ない気持ちもあったが、ここは明るく合コン話に乗っかるしかない。
自分の未来のためによそ見をしている暇はないんだから。
6年前の出会い
私が高野聡に初めて会ったのは、入社したての6年前。
高野さんは当時、勤務歴6年目の28歳だった。
繁忙期でピリピリとしたムードの中、放置されていた新入社員の私に向かって、
「とりあえず、これ読んどいて」
と自ら説明付きの付箋をつけて、社内マニュアルを手渡してくれた。
これがきっかけで彼のことを知った。
彼は私の業務とはあまり関係のない営業の社員だったのに、わざわざ事務のマニュアルを探して、目を通してから渡してくれたようだった。
社内でもイケメンと噂され、仕事も優秀な高野さんに憧れるのはもちろん私だけではなかった。
それに、彼女がいるという話も聞いていたので、目の保養という社内のオアシスに位置付けてしばらく過ごした。
それから半年後、少し業務にも慣れてきた私に、驚きの任務が言い渡された。
「玉名、お前営業の出張について行ってこい。大阪だから土産よろしくな~。」
のんきに部長に言い渡された私は、事務職にも出張があるのかと驚いたが、どうも取引先によっては若い女性社員を連れて行くということが大事らしい。
特に業務については触れなくていいから営業のお供をしろ、というお達しだった。
その、お供の相手が高野さんだった。
「よろしく。一応取引先の情報については、あとでメールしておく。」
そう言い残して高野さんは足早に仕事へ戻っていった。
半年間で目の保養として彼を観察して分かったことは、
- あまり余計な事を話さない、
- 業務についておかしいことがあれば先輩後輩関係なくきっぱり指摘をする、
- 一見周りには興味なく仕事に没頭しているように見えるが、実はさりげなく周りのフォローをしている
ということだった。
二人きりの出張に動揺していることを悟られないように席について、高野さんからの取引先に関するメールに目を通した。
言い渡された彼との出張
博多駅から新大阪駅まで新幹線で2時間半。
高野さんの仕事の都合で往復移動は別々の時間になったが、ホテルや取引先との飲み会は一緒である。
ホテルをチェックインし終えて、接待会場である北瑞苑という梅田の懐石料理店に向かうと、すでに高野さんが入口に立っていた。
「高野さん!早かったですね。」
そういいながら、肌寒い秋の風を感じ、高野さんと二人で取引先の相手を店の入り口で待った。
取引相手との接待は緊張したが、元々お酒好きなのが功を奏し、良い雰囲気で進められた。
ただ、相手のペースに合わせて飲み、注文にも気を配っていたのであまり食事を出来ずお酒がまわってしまっていた。
高野さんはというと、今まで見たことのないにこやかな営業スマイルとトーク技術で、驚きを通り越してため息が出そうだった。
寡黙なのもいいけど、これはこれでかっこいい。
そして滞りなく取引相手のタクシーに乗せて、無事接待の任務は終了した。
「お疲れ様。やっぱり女性社員がいてくれると相手側の反応が違うな。助かった。」
まだ営業用の雰囲気が残っているのかいつもよりにこやかな雰囲気で微笑まれ、思わず一瞬息をのんでしまった。
「帰る前になにかおごろうか。ほとんど料理食べられなかっただろ。」
そういうと高野さんは、近くのお店に案内してくれた。
お店は梅田にあるエムプライムというお洒落なダイニングバーで、案内されたのはカップルシートだったので隣にある彼の顔にドキドキして、外の夜景を必死に見つめながら話した。
仕事のこと、事務職員同士の噂話、おもしろおかしく話したので高野さんも笑いながら聞いてくれた。
一時間ほど話した後、チェックインしていたホテルまでタクシーで戻った。
フロントでホテルのカギを受け取ると、私は6階、高野さんは3階の部屋なのが分かった。
エレベーターに先に乗り込み、6階のボタンを押す。彼の部屋がある3階のボタンを押したくなくて、何階ですか?とは聞かなかった。
6階のボタンを押し、動き出すと一瞬高野さんが話し出そうか迷った気配がしたけど、あえて気づかないふりをして、6階に到着した。
「着いちゃいましたね。」
少し困ったように二人で笑って、私の部屋へ案内した。
そこからまた缶ビールで乾杯し、ベッドの上で私が話に夢中になっていると、いつの間にか手を握られていた。
今まで触れたくてしょうがなくて、でもその気持ちに蓋をして遠ざけていたその手に、どうしてももっと触れられたくて、ベッドの上で壁にもたれている彼の胸に飛び込んだ。
その夜は、思う存分触れてもらい、彼のことを受け入れて眠りについた。
それから半年間、
仕事中にたまにこちらをみて照れたように笑って顔をそむける仕草も、
資料が見つからずに困っている私に、さりげなく探してきて渡してくれる優しさも、
どんどん好きになり、
深みにはまっていった。
出張同行や飲み会帰りに二人で会ってお泊りする関係は続いていたが、彼女がいる高野さんに好きとはとても言えなかったし、彼から言われることもなかった。
反転
出会ってから1年が経とうとしていた春を待つある日、私たちのそんな関係に終わりが迫っていた。
珍しく事務作業が残って残業していた私に、高野さんが話しかけてきた。
職場で仕事以外のことで話しかけられることもなければ、特別に約束して二人で会うことも珍しかったので、突然の誘いに驚いた。
「ちょっと話したいから、ご飯行こう。終わったら下に降りて連絡して。」
小声で近づいて話され、ドキドキしてしょうがなかったが、声のトーンから何か嫌な予感がしていた。
会社から出てすぐの場所で待ち合わせると、博多駅にある私の好きな一藤というもつ鍋屋でご飯にすることにした。個室に入り、しばらく鍋を楽しみながら話をしていると、高野さんが言いにくいことを押し出すように目を背けて話し出した。
「実は、東京に異動が決まったんだ。」
「…東京…?」
「結構前から、今東京の本社にいる、お世話になっていた上司に推されてて。4月から東京本社に異動になる。」
一応全国に支社があり、東京に本社のある製薬会社なので、私たちのような事務職以外の社員は転勤の可能性があるのは分かっていた。
優秀な高野さんがいずれ一度は本社へ異動になることもあり得る話だったが、離れるまであと1カ月を切っているという事実にうろたえた。
しかし、ショックはこれだけではすまなかった。
「東京に引っ越すうえで、彼女とも色々話して、彼女も東京に着いてくることになった。」
「…。」
彼女が東京に…。高野さんから初めて発せられた彼女という言葉も心に刺さったが、それよりも、東京について行くということは…つまり…
「…結婚するってこと…ですよね?」
絞り出すように声を出す。
「…向こうに行って落ち着いたら、籍をいれようと思ってる。」
うつむくように、申し訳なさそうに話していた高野さんだったが、最後はこちらを見てはっきりと言った。
ずるいのに…ひどい人なのに…最後にこうやって、ただの遊び相手の一人だったかもしれない私にもきちんと向き合ってくる。
そんな彼が好きだった…。
別れのあと
そんな別れから5年の月日が経ち、新入社員だった私も、いわゆる中堅の事務職員となった。
高野さんが異動してしばらく経ったころ、彼が結婚したらしい噂は耳に入ったが、詳しい話は聞かないようにその話から避け続けた。
同期で仲良くなった桃に高野さんの話を打ち明け、毎週のように女子会や合コンを重ねるようになったころには、彼のことはたまに思い出して少し胸が痛む程度に薄れてきていた。
それなのに…
「帰ってくるのかぁ…」
ひとり呟きながら、仕事を終えて家に帰った。
4月になり、いよいよ高野さんが帰ってきた。高野さんは営業職と開発職を行き来する独自のポジションに配置された。
フロアの違う事務職員の私と会うことはほとんどなかった。まれに高野さんからかかってきた内線を他の人へつなぐときに
「少しお待ちください」
と伝える声が上ずってしまいはしたが、思ったほどの動揺はないことに安心した。
彼もきっと私のことなんかすっかり忘れてしまっているだろう。そう思っていたのに…。
4月も終わりに差し掛かり、やっと少し仕事が落ち着いたころに遅めの歓迎会が開かれた。福岡支社全体の飲み会で、ほぼ全員参加の会だった。
2次会、3次会と進むにつれ人はどんどん少なくなっていったが、私はいつものようにお酒好きの宮原さんという先輩につかまっていた。
そう言ってなみなみと日本酒をつがれる。悪い先輩ではないのだが、お酒が入ると調子よくなってしまうタイプの人だ。
こぼれた日本酒を拭きながら、表面張力で何とか保っているおちょこを口へ運ぶ。
「良い飲みっぷり~。さすがぁ。」
あはは~と笑う宮原さんはもうあまり呂律が回っていない。
端の方で桃ががんばれ!と私に目線で応援しているのが見えた。
やがて3次会もお開きになり、そろそろ帰ろうかと店を出ると、すっかり足元もおぼつかなくなった宮原さんがこちらへ向かってきた。
がっちりと肩を組まれ、
「玉名~もう帰るの?もうちょっとだけ飲もう?」
いやいや、もう帰りますよ、いや、いいじゃん、という応酬をしている間に周りの社員たちはどんどん帰っていく。
ほとんど人もいなくなったとき
「いいじゃん。一杯だけ。凜子ちゃんと飲みたい。」
甘えるように言われ、肩に置かれている手が徐々に下がってきた。あ、これはちょっとまずいかも、と思っていると、後ろから声がした。
「お邪魔してすみません。俺もいいですか?」
高野さんだった。まさかのタイミングに声も出せないでいたけど、本当は高野さんが2次会に残っているのも3次会に残っているのも目で追ってしまっていた。
「おっっ!高野も行っちゃう?行こ行こ!」
上機嫌で周りの居酒屋を物色し始める宮原さん。
結局飲みたいだけなんかい!と少し心の中で突っ込む。
「急に入り込んでごめんね。宮原さん結構お酒まわってるし、少し飲んで帰ろう。」
困ったように笑ってこっちを覗き込んでくる懐かしい顔をみて、たまらない気持ちになった。
お願いだから、その大好きだった表情でこっちを見ないで。
大好きだったのか大好きなのか分からなくなっちゃうよ、とはもちろん言えず、
「助かりました。ありがとうございます。」
と何とか笑顔で答えてお店へ入った。
お店に入った途端、眠りについてしまった宮原さんにあっけをとられながら、高野さんと久しぶりに話をした。
最近の事務の話、高野さんの東京本社での激務の話、お酒のおかげでスムーズに話が出来た。
「じゃあ宮原さん。ちゃんと自分ちまで行って降りてくださいよ~!」
何とか叩き起こした宮原さんをタクシーに乗せて、自分たちの乗るタクシーを待つ。
「遅くなっちゃいましたね。大丈夫ですか?」
奥さんに怒られないですか?と続けようとして、やめた。
さすがにその話題を笑顔で続けられる自信がない。
「明日予定ないし、大丈夫。」
そう答えたあと、
「…玉名、少し話したいことがあるんだけど…」
真剣な表情でこちらを見ている高野さんの手が、私の手に触れた。握られようとした手を、反射的にパッと話す。
ちょうど目の前にタクシーが通ろうとしていた。
「…すみません。私…帰ります。」
タクシーに飛び乗ると、急いで行先を告げて出発してもらった。窓の外は見られなかった。
「えぇ~~!?なにそれ!?不倫のお誘い!?」
次の日、休みの桃を呼び出して昨日のことを一通り話した。
「昨日の宮原さん、いつも以上にしつこかったもんね。私も部長につかまっちゃってさ。助けられなくてごめん。」
「何言ってんの。部長の方が大変だったでしょ。」
「大丈夫!3次会終わった途端、めっちゃ逃げて撒いたから。」
そう言いながら、へへ、と笑う桃がおかしくて少し気持ちが軽くなった。
「なんかさ、高野さんにとっては遊びだったかもしれないけど、私にとっては本気の気持ちだったから、軽く扱われたことにもショックだったし…」
そう話しながら、自分の中で他にも一番ショックを受けている事実があることに気づく。
「手が触れたとき、本当はすごく嬉しかったんだよね。ダメなのに。全然忘れられてないって気づいちゃった。」
口にして、また気持ちが重くなる…。私、結婚してる人のこと好きなんだ…。
「凜子…。気持ちは分かるけど…まだ引き返せるならやめとかないと、凜子が苦しくなっちゃうよ?」
優しく言ってくれる桃の言葉に泣きそうになった。しばらく取り留めのない話をして、帰ろうとしたときに、
「そういえば、この前友達に聞いたんだけど、今電話占いでかなり当たるって人気のところがあって…気が向いたら試しに掛けてみたらいいかも!」
そう言って電話占いのサイトを教えてもらった。電車に乗りながらスマホでフィールという占いサイトを確認し、自宅の最寄りである室見駅の改札をでたところで思い切ってかけてみる。こういうのは、思い切りが大事だ。
「こんにちは。占い師のハルミと申します。生年月日を教えていただけますか?」
女の人の綺麗な声がする。生年月日や、今までの高野さんのこと、高野さんの生年月日、今の仕事の状況など話した。
「お相手の高野さん…本来浮気性なタイプでもないですし、あなたとは縁も相性もいいように見えますけどね…」
「あと…」
ハルミさんは少しためてからこう言った。
「高野さんと言う方…本当にまだ結婚されていますか?2年ほど前に女性との大きな別れの相が見えるんですけど…」
「…え…?」
まさかの答えだった。もしかして、そんなことがあり得るのだろうか。昨日高野さんが言いかけた話って…。
「すみません!!ちょっと彼に連絡取りたいので切りますね!またお願いするかもしれません!」
あわてて挨拶をして電話占いを終わらせると、スマホの電話帳から高野さんの電話番号を見つけた。
まだ番号は変わっていないだろうか。とりあえず家に着いてから掛けてみようと、バッグから家の鍵を探そうとしたとき、家のマンションの前で見慣れた人影に気づく。
「…高野さん…!」
「こんなところまで来て、ほんとごめん。話をしたらすぐ帰るし、二度と待ち伏せしたりしないから。」
必死に話す高野さんの表情を初めて見た。そして、さっきの電話占いが当たっていることを確信した。
「…高野さん…離婚したんですか?」
高野さんが驚いた表情でこちらを見る。
「知ってたんだ?実は、2年前に離婚した。仕事が忙しすぎて家庭をおろそかにして…上手くいかなくなっていった。」
「そう…だったんですね。」
「こうなって帰ってきてから、今さら玉名に話しかける資格なんてないと思ってたし、このままそっと仕事だけの関係でいようと思ってたんだけど…」
ためらいがちに、でも真剣にこちらを見て話してくれる。
「…昨日、他の奴に触られてるの見たら、やっぱり嫌だって思ったんだ。どうしてもきちんと伝えようって…」
ふっと息を吸った高野さんが、私の手を取る。
「玉名、俺、お前のことが好きだったし、好きだよ。」
少しかがんで、こちらを覗き込むように伝えてくれた。
ああ、この覗き込む仕草も好きだなぁとこの期に及んで思ってしまう私は、もうどうしようもないのかもしれない。
衝動に従って、思いっきり抱き着くことにした。
「私なんか、ずっと大好きですよ。ずっと言えなかったんですからね!」
高野さんの背中にギュッとつかまりながら話す。高野さんがクスッと笑う振動が伝わってきて、今いつもの困った笑顔になってるんだろうなと予想した。
「なぁ、ここ、外なんだけど…。」
笑いながら、高野さんが言う。彼の胸に顔をうずめながら、
「ちょっと、恥ずかしすぎて顔あげられないんで、急いでうちに入りましょう。」
そういって、二人で手をつなぎ、急ぎ足でマンションのドアへと向かった。