山田あみ(女性・30代前半)
過保護の両親というのは、普通の家庭で育った人には想像できないほどの恐ろしい存在です。
モンスターペアレンツともいいますが、まさにモンスターそのものですから、子供に不毛な闘いを強いるものなのです。
今からお話するのは、過保護で過干渉な両親をもった私が、精神的に追い詰められてうつ病に陥り、地獄の日々を送った体験談です。
両親や兄弟からの異常なプレッシャーに潰されそうな人は、ぜひこの体験談を読んで、何らかの気づきを得て頂きたいと思います。
裕福な母の実家に婿入りした父
私の父は一度結婚に失敗しており、その後、裕福な家庭で育った母と再婚しました。
40代になってからの、いわゆる逆玉婚であり、その間に生まれたのが私だったのです。
父は貧乏育ちの田舎者で、母のような都会のお嬢様育ちの女に憧れや興味が湧いたのでしょう。
母の実家は会社を経営しており、当時は祖父(母の父親)が社長をしていましたが、いずれは父が後継者になる予定でした。
ただ、祖父と父は何かと確執が多く、会社の経営方針が合致しなかったため、他の人を後継者に決めたのです。
それに反発した父は一気に母と仲が悪くなり、家庭内が不穏な空気に包まれるようになりました。
頑固でプライドの高い祖父と、ワガママな娘(母)に尽くしてきたのに、会社を手中に収められなかったのがよほど悔しかったのでしょう。
当時、私は10歳くらいでしたから、大人の事情が理解できなかったものの、両親と祖父や祖母の仲が深刻になっていくのを肌で感じていました。
朝起きたら母がいないのもしょっちゅうで、父に愛想をつかして実家に戻っていたのだと思います。
暴力的な父と二人きりにされた私は、いつも孤独や不安でいっぱいになっていました。
父が事業に失敗、母に異変が起こる
祖父の会社を継げなかった悔しさもあり、自分の力を見せつけたかったのでしょうか。
父は会社を辞めてすぐに、同郷の友人らと一緒に工業用塗料を扱う小さな会社を始めました。
ところが、この会社は不況のせいもあり、わずか2、3年で倒産してしまい、多額の借金だけが残ったのです。
母は外で働いたことがない箱入り娘でしたから、祖父に借金の肩代わりをしてもおうとしていました。
その事を知った父が母に暴力をふるうようになり、傍で母をかばっていた私にも、連日のように暴力をふるうようになっていったのです。
祖父は父が借金の返済能力がないことを見抜いていましたから、何とか借金を返してくれて、同時に母と私への暴力もなくなりました。
ただ、この頃から母が私に依存するようになり、何かと口出しをするようになったのです。
不幸になったのは全て父のせいだと言い続け、家にいる時は私の傍から離れず、寝るのも私の部屋になりました。
思春期真っ只中の私にとって、こうした母の言動は扱いづらく、でも冷たくあしらうこともできず悩みました。
ですが、父も転職して何とか生活もやっていけたので、一時的なものだろうと軽く考えるようにしていたのです。
今思えば、この時点で誰かに相談しておけば良かったと後悔していますが、一方で、誰が助けてくれただろうかと考えると、思い当たる人物が浮かびません。
祖父母と完全に縁を断ち切っていましたから、私には相談できる相手が一人もいなかったのです。
過保護や過干渉することで両親がタッグを組む
私が中学生の頃になると、不仲だった両親がなぜか普通の夫婦のように振る舞いはじめました。
子は鎹といいますが、まさに私は二人の関係を修復するためのキーパーソンだったのでしょう。
自分たちの満たされなかった希望や、拭いきれない不安を私に投影することで、気持ちをコントロールしているのが分かりました。
登校すると学校に電話連絡を入れ、担任の先生に「うちの子はきちんと登校しましたか?」と毎日のように確認するのです。
成績はトップクラスでなければ叱り続け、友人を家に招くと「ご両親は何のお仕事をされているの?」と必ず尋問するように聞いていました。
クラブ活動で帰宅が遅くなれば学校に電話を入れ、顧問の先生に「勉強する時間を減らす気ですか?」などの嫌みや小言を訴え続けていました。
父はそんな母を見て何も言わなかったのですが、高校受験のシーズンになった頃、私に進学校を受験するよう強要してくるようになったのです。
当時の私には到底無理な高い偏差値の高校で、しかも遠方でしたから、片道2時間以上かけて通学しなくてはいけません。
そんな高校に通いたくないと言い続けたのですが、全く聞く耳をもたず、挙句には担任の先生を家に呼びつけ、私を説得して欲しいと頼んだのです。
先生は呆れ顔で「高校浪人させたくなければレベルを下げてください」と言ったのですが、両親は怠慢な教師だと校長先生に電話していました。
友人もいないし、先生からは腫れもの扱いされるし、勉強しなさいと言い続ける両親のせいで、私は精神的に追い詰められて心を閉ざすようになったのです。
高校生活3年間と社会人になってからも両親の尾行、過保護・過干渉続く
両親が希望していた進学校を受験するも不合格に終わり、滑り止めで受けていた高校に進学した私を、両親はさらに干渉するようになりました。
クラブ活動は一切許されず、何よりも勉強を優先させることが、地元の高校に進む条件だったのです。
そのため、高校3年間はほとんど良い想い出がなく、周りが彼氏と付き合ったりしているのに、私だけ青春を取り上げられたような気分でした。
大学進学は絶対条件でしたから、私は必死に勉強をして何とか有名大学に推薦合格をしたのです。
ところが、両親が思い描いていた通りの道に進んだのに、一人の友人にせいで誤解を招き、両親が勝手に推薦を辞退してしまったのです。
その友人とは高校3年生の時のクラスメイトで、私と同じ大学を受験する男の子でした。
放課後に二人で図書室で勉強をしていただけでしたが、彼の存在を知った両親が、私のことを「ふしだら」「不純」と言って大学に行く資格がないと決めつけました。
何もかも犠牲にしてようやく合格したのに、全く信用してくれず、感情的な判断で私の人生を閉ざした両親に心から失望しました。
辞退した大学には進学できないまま、卒業して地元で就職をしても、両親は度々、私を尾行するようになりました。
高校時代もそうでしたが、母は専業主婦だったので暇ですから、私が登校したり、出社するたびに車で尾行していたのです。
それは社会人になってからも変わらず、私が運転する車の2、3台後ろには、必ず母が運転する車が見えました。
学校や会社をサボってどこかへ行かないか見張っているつもりでしょうが、明らかに異常な執着心をもった行動でした。
過保護からの脱出!家出をして結婚・両親との連絡は途絶える
毎日、何食わぬ顔で尾行を続ける母と、それを知りながら黙認している父に対して、私は我慢の限界を感じました。
20代も半ばを過ぎていましたから、私も一人の大人として自立するべきだと思ったのです。
事あるごとに「養ってやっている」「いつ捨てても構わない」と罵られていましたが、自立できるなら家にいる理由は何もなかったのです。
反対を押し切って遠方の会社に転職して、一人暮らしをするようになりました。
その会社で出会ったのが今の夫で、事情を話すと何かと力になってくれたので、唯一、私を認めてくれた相手でした。
家を出てから何度か両親から連絡がありましたが、居所を知られないように気を配り、結婚したことも話していません。
転職を決めたあの日、家を一歩出た時から、もう私の心の中の両親は消えてなくなったような気分でした。
でもその後、何年間も夢の中に両親がでてきて眠れず、体調不良で病院を受診したら、精神科に行くよう勧められ「うつ病」と診断されました。
今でも通院していますが、医師からは「しばらくは両親と連絡を取らないように」と言われています。
もう会っていないのに、私を苦しめている両親の影は、未だに心を蝕んでいて、いつになったらこの闇から抜け出せるのか分かりません。
過保護&過干渉な両親から抜け出して思う事
いくつになっても両親の存在は大きいもので、真面目な人ほどプレッシャーを感じやすいと思います。
過保護で過干渉な両親のもとに生まれ、レールの上に乗せられている気分になっている人も少なくないでしょう。
一見すると「良い両親」といった感じで誤解されやすく、他人に話したところで反抗しているとしか見なされません。
パワハラ、モラハラの極みといえる両親の愚行を、無理して許そうとは考えずに、私のように環境を変えてみることをお勧めします。
経済的に自立できるようになったら、たとえ両親といえども情に流されず、物理的距離をとったほうが幸せになれると思います。