山乗多美子さん(女性・30代後半)
息子の発達障害を受け入れられず、現実から逃げていた私。
どうして息子だけできないのだろう。
どうして他の子と違う行動をするのだろう。
私の子が障害児なわけがない。
周りの意見に耳を傾けず、息子は普通だと思い込もうと苦しんだ3年。
自閉症スペクトラム障害と診断され、意外にも私の心は軽くなった。
発達障害と診断されたことがきっかけで、愛情とは何か、親とは何かを見つめ直すことができた。
息子の発達障害を受け入れることができ、やっと親としての人生が始まった。
私は発達障害の息子を持つ母親
私は何年も息子の発達障害を認めることができず、非常に苦しんだ。
他の子とは明らかに違う息子の行動を見ても、息子が日常生活でひどく苦しんでいる姿を見ても、うちの子は普通だから、うちの子に限ってという思いが強く現実を認めることができなかった。
なぜ至って普通の私達夫婦から障害児が産まれなければならないのか、なぜ私が息子の障害を認めることを強いられなければならないのか、そんなことばかりが心の中を占めていたように思う。
その時の私は自分の苦しさから逃れるために、息子に他の子と同じ行動を強要し、できなければ責め立てていた。
息子が私の愛情を感じられず、辛い思いをしていることを感じる余裕がどこにもなかったのである。
幼稚園に入園した息子
息子が3歳の時に幼稚園に入園した。
私と離れるのが辛く毎朝園で泣き喚くのが日課だった。
入園して1ヶ月経った頃、担任の先生から園での息子の様子について気になることがあると呼び出しを受けた。
先生が気になることというのは以下の点だそうだ。
息子は環境の変化が苦手で、不安が強く見通しが立たないことがあるとパニックになるとのこと。
パニックになると泣き喚きながら自分の髪の毛を引っ張ったり、自分の腕を噛んだり、先生の顔を叩いたり手がつけられないほどだそうだ。
他にも、人と目を合わせない、極度に運動ができないなど色々な点を指摘された。
先生曰く、発達障害の可能性があるので1度専門機関で検査を受けた方が良いとのことだった。
発達障害だった…うちの子に限って
頭の中が真っ白になった。
私達夫婦は高学歴で、主人は大手企業のエリートだ。
当然息子もいい大学を出て、留学を経験して、大きな会社に就職するだろう。
そんな夢が崩れ落ちていくような衝撃だった。
私達夫婦から発達障害のある子供なんて産まれるわけがない、本気でそうだ思っていた。
当然私は猛反論した。
「息子は普通です。検査に行く必要はありません。」
本気でそう思う反面、心の奥では他の子と少し違うという認識が確かにあった。
しかし認めるわけにはいかない。
認めると息子は発達障害児にされてしまう、そんな恐怖感があった。
私は主人には言わず、自分の心の中だけに留めておこうと決めた。
年中になり年長になり、その度に何度も担任の先生から検査を勧められた。
息子の状態は全く改善されておらず、益々ひどくなっているようだった。
先生の指示が通らず、クラスのお友達に手をあげることも増え肩身の狭い思いをした。
今日はどんな問題行動をしたのだろうと、毎日毎日園に迎えに行くのが憂鬱だった。
先生はあの手この手を尽くして、息子が不安を感じずに過ごせるよう工夫をしてくれていた。
例えば、今日1日のスケジュールを分刻みにボードに書いたり、発表の時は紙に書いたものを読むだけにしてくれた。
息子はそれがあると安心するらしく嬉しそうだったが、私はとても嫌だった。
とにかく他の子がしていないのに、息子だけが違うことをしているのが嫌だった。
自閉症スペクトラム障害
年長になり、小学校を見据えて必ず検査をするように強く言われた。
どんな息子さんでも愛してあげて下さい、と。
その言葉は私の心に深く突き刺さった。
私は、みんなができることができない息子を愛していたのだろうか。
苦しんでいる息子を見ようとせず、自分の体裁のために息子に無理を強いてきたのではないだろうか。
急になんとも言えない気持ちになり、家に帰ってわんわん泣いた。
主人に初めてこれまでのことを打ち明けた。
主人は、一緒に検査に行こうと背中を押してくれた。
専門機関で検査を受けると、息子は知的障害を伴った自閉症スペクトラム障害という病名がついた。
人と目を合わせることが苦手、パニックになると自傷他害行為をしてしまう、不安が強いなど息子の行動は自閉症に因るものだった。
私は不思議と気持ちが楽になった。
障害児となってしまった今より、障害児ではないと現実から目を背けていた時のほうがずっとずっと辛かったことに気がついた。
そして、誰よりもわかってほしいお母さんにわかってもらえなかった息子の辛さを思い、申し訳なくて涙が止まらなかった。
発達障害の息子…その良いところを見つけられる私に生まれ変わった
息子の診断を受け、療育に通うことにした。
療育先の先生は視覚的表現を多用して、息子の指導に当たってくれた。
息子はできることがどんどん増えた。
私も息子との向き合い方が変わってきたせいか、息子の良いところ、すごいところを沢山見つけられるようになった。
息子の障害を受け入れる強さを身につけた。
障害を受け入れる強さとは息子に対する愛情の深さだと思う。
小学校は支援学校に行くことに決めた。
息子が楽しんで生き生き生活できることが1番だと思う。
親が子供の全てを認めてやらなければ、本人が自分自身を認めることができなければ、本当の意味で自分の人生は始まらない。
息子と私の人生は今始まったばかり。
私の苦しんだ3年は幕を閉じ、これからは希望の未来が待っていると確信している。
我が子の障害を受け入れられないあなたに伝えたいこと
我が子の障害を認められない親は多いと聞く。
私は現実から逃げている間、息子にとって貴重な時間を無駄にしたと後悔している。
療育に通い始め、日に日に伸びて行く息子に嬉しさを感じる反面、なぜもっと早く通わなかったのだろうと常に後悔が付きまとっている。
子供の療育は早ければ早いほうが良い。
なぜなら、早ければそれだけ多くの療育ができるからだ。
小さいうちから療育を始めた子と、入学直前から療育を始めた子ではできることの量が全然違うからだ。
子供の人生は親のものではない。
親は子供が自立するためにできることを増やしてやらなければならない。
頭では理解していても、心がどうしても拒否してしまうという人は、一度エゴや見栄を捨て、真っさらな気持ちで子供が産まれた時のことを思い出して欲しい。
我が子の不幸な未来を望む親はいない。
産まれたばかりの時は、幸せな人生を送って欲しいとだれしも願っただろう。
障害があってもなくても、原点はそこだ。
その子が毎日楽しく生活できるにはどうすれば良いかということだけを考えて欲しい。
そのためには親は我が子の全てを受け入れ、1日でも早く生きる力をつけてやることが何よりも大事である。
他の子と比べるのではなく、我が子だけを見てあげて欲しい。
他の子が当たり前のようにできることはできなくても、我が子にしかできないことが絶対にある。
できないことを見つけるのではなく、できることを見つけていくのが大事である。
親はどうしても我が子に期待をしてしまうものだが、親は親の人生を、我が子は我が子の人生を生きるべきである。
我が子は親の自尊心を満たすための道具でもなく、親の成し得なかった自己実現を図るものでもない。
自分と我が子の境界線を曖昧にせず、別の人生を歩むということを理解しなければならない。
我が子が自分自身の人生をスタートできるよう、存在を認め全てを受け入れる愛情でサポートしてやるのが親の使命である。