精神疾患

10年苦しんだパニック障害を乗り越えた方法

ももの姉妹さん (女性・40代前半)

私は今から12年前、パニック障害と診断された。

病気は誰でもそうだが、精神的な病気も特に、私もまさか自分がそんな病気になるはずがないと思い込んでいたためとても落ち込んだ。

時間はかかったが乗り越えられたので、誰かの役にたてられればと思うのである。

パニック障害発病の背景

私は、26歳の時、父を亡くした。

しかし、親はいつか自分より先に亡くなるものだと覚悟はしていたから、もちろん辛かったが受け入れた。

何が病気のきっかけになったかというと、私のたった一人の5才離れた姉の事だった。

父が亡くなる前、我が家は父の経営していた会社倒産のため家を競売にかけられた。

家族全員で夜逃げをして、都心から郊外の賃貸マンションに移り住んだ。

姉は、もともと海外留学をしていたが父の会社倒産の影響で大学卒業と同時に日本へ両親に呼ばれたのだった。

私からすれば、姉は幸せだと思う。

留学をさせてもらい、呼び戻されはしたが、大学卒業までは留学をさせてもらえたのだから。

しかし、彼女は日本に帰国後、長女としての責任も感じたのか、海外へは戻らず日本で働いた。

そして不倫をした。

妻子ある人と恋愛をし、結果別れた。

会社の人であったから会社もやめた。

彼女は、両親を恨んだ。

結婚も仕事もうまくいかないのは両親のせいだというのである。

父がなくなる半年前、我が家の収入はほぼゼロに

姉は当時30才、私は26才、父が亡くなる半年まえの事だった。

確かに姉は、両親に呼び戻され日本に帰国した。

その後も我が家は父の収入がほぼゼロになり、みんなで働いた。

しかし、私は、私も姉もとっくに成人しているのだから働くのは当たり前だし、家にお金を少しずつ入れるのは当たり前だと思っていたのである。

父も、一時は代表取締役だった人だが街でビラ配りのバイトをしていた。

切ない光景だったが、父も必死に働き、家族一人一人が頑張った。

苦しかったのは姉だけではないのである。

しかし、姉は、その後シンナー中毒、薬物に依存したり、過食症、リストカット、自殺行為などを起こした。

父が存命だったころは、過食症だけだったが、死去後、悪化して上記のような症状がでたのである。

父が死去して、姉がますますそのような状態だったので、私はそれまで以上に働いた。

私が、昼間働いて家を空けているときは、姉が母に暴力を振るったりしていないか心配で気がかりだった。

仕事が終わり一目散に家に帰ると姉はシンナーを吸っていた。

体は過食症で、私より背が高いのに横幅は私の半分くらいしかなくなっていた。

シンナーを取り上げるが、取り上げても取り上げても姉は自分で用意するのである。

このままでは姉まで死んでしまうのではないかと毎日怖かった。

市役所に相談したり福祉施設に、仕事の合間に相談に行ったりもした。

姉は、精神科にもかかっていたので、母も私も相談した。

しかし、姉は、精神科の主治医には、あんたたちは余計なことは言うなと、暴れた。

夜寝ていても、隣の姉の部屋から大きな音が聞こえ飛んでいくと、またシンナーを吸っていたり、睡眠薬を多量に飲んでいたりした。

心配でたまらなかった。

母も我が家の夜逃げや、突然の父の死去で疲れがたまっているのが見ていてわかったから、なんとか私だけは明るく元気でいなければといつも思っていたのである。

しかし、そんなことが日々が5年ほど続いたある日、私もついに体調が悪くなってしまった。

パニック障害の発病、その症状

いつものように、会社で仕事をしていると、突然息苦しいような、体に力がはいらないような症状が突然発生した。

それまで経験したことのない症状である。

なぜだろうと思いつつ、我慢できあにほどではないので、力仕事など引き続き仕事などをしていた。そしてふと、両手のひらをみると赤い発疹がでていた。

会社の人に言うと、「蕁麻疹じゃない」と言われた。

アレルギー体質ではあるが、蕁麻疹を起こしたことはそれまで一度もなかった。

その後も、突然の耳鳴りや耳の聞こえの悪さ、体がすぐ疲れてしまい思うように動けないような症状がでてきたのである。

しかし、働かないわけにはいかず、さらにもう少し給料の良いところに転職しなければと思い、転職活動を始めたが、仕事をしながらだと面接を受けに行きたくてもタイミングよく休みが取れず、思い切って会社を退職することにした。

会社を退職して体を休ませながら転職活動をすれば、私の体調不良もよくなるだろうと思ったのである。

しかし、事態は私が思っていたことと真逆の方向に行ってしまった。

会社を退職したとたん、なぜか症状は一機に悪化。

耳なりと難聴に合わせてめまいなども発生して、朝、ベッドから起きれなかったり、会話ができなかった。出先でも急なめまいに襲われるため家から5分のスーパーさえも行けなくなってしまったのである。

そして、蕁麻疹も進行し、体を少し動かして汗ばんだだけで、体中が真っ赤になるようになってしまった。

パニック障害は10年続いても乗り越えられる。その方法

いったい私の体はどうなってしまったのか。

何の病気なのか。

転職活動どころではないので、病院を受診することにした。

と言ってもめまいがひどく遠くには行けないので、自宅から100Mのところにある内科に行った。

問診の後、血液検査や心電図、レントゲンなど一応ひととおり行ったが、病気の特定には至らなかった。

そして、医師と診察室で再び話をしていると、医師はカルテに「パニック障害」と書いていた。

私は、子供のころから高熱を出すことはあったが、精神的にはとても自信があった。

何があっても「何のこれしき」と、胸をはり、風邪をひいたり脱水症状で病院に運ばれても、精神的な疾患には無縁な人間だと思っていた。

しかし、一方で冷静に考えると、精神的な疾患でも、体の疾患でも、病気に襲われてしまった人は誰しもが、そう思うものなのかもしれないとも思ったのである。

医師は、私には直接「パニック障害です」とは言わなかったが、とにかく少しよく眠って体も心も休めると楽になるよと、一つの薬を処方してくれた。

その時はなんの薬を出されたのか分からず、家に帰ってからインターネットで調べると、精神安定剤だった。

まさか自分が精神薬を飲むことになるなんてとまた落ち込んだが、一応、医師の指示通り飲むことにした。

確かに飲むと心が落ち着いたが、次に病院にいったところ、医師がさらに強い薬を出してきて、それを飲んだら楽になるを通り超えて逆に不安定になったので、私には

別の治し方があるのではないかと薬を飲むのをやめた。

薬を飲むことは決して悪いことではないと思う。

薬が効くようであれば、もちろん薬で治していくこともよいと思うが、一応病名が判明したので、さらに一歩前に踏みだしてして自分なりに考えてみようと思ったのである。

姉は引き続き、シンナーを吸ったり過食症も治ってはいないが、彼女も病院には受診していたので、様子をみつつ私も自分の体を少しは労わろうと視点も変えてみた。

すべて家族の犠牲になる必要はないのである。

そして、「パニック障害」について調べたところ、自律神経の乱れも影響しているとのことだったので、まずは少しずつい家のなかでストレッチをしたり、めまいがあるときは無理せず休むようにした。

その後、家の近所を少しずつあるき遠くには行けない間は、家の周りを何往復もして自信を少しずつつけるようにした。

電車にも乗れなくなってしまったので、まずは一駅、二駅乗る練習を繰り返し、お気に入りのかわいいノートに今日はこれができたと記入し、毎日の症状も記入した。

自分に自信を取り戻すことが元気の秘訣だと気づいたので、歯がゆい気持ちもしたが、散歩中の小さなことでも楽しみを見つけ日々をつなぐようにしたのである。

仕事もしないと家族で食べれなくなってしまるのだうので、まず、軽い体の運動をしつつ、パソコンを利用して得意な文書や絵の在宅ワークをした。

大した稼ぎにはならないが、ほんの少しでも社会とのつながりを持つことも症状の緩和につながると実感したのである。

その後、一日の中で短い時間で近所にパートに出かけつつ、できる範囲で在宅ワークもつづけた。

体調をみながらバランスをとるのはうまくいかない日もあるがうまく行く日もあるので、うまく行く日があるのだからと、自分の背中をさするようにした。

パニック障害の克服後の私

五年後、またフルタイムで働けるようになり、発病がから十年が経過した。

心の病気と言うのは、完全に乗り越えるのは、難しいと姉を見ていても自分の事でも思うが、自分から目をそらさないことである。

パニック障害から元気になって来て

その後、姉も私の姿を見てくれ、時間はお互い時間はかかったが、姉も元気になろうとしている。

私が、パニック障害になったのもすべてが姉のせいではないかもしれないが、一時は恨んだこともあった。

しかし、人を恨んでも幸せにはなれないし、病気が治るわけでもないのである。

もし、私のようにパニック障害になって今も苦しんでいる人がいるのならば、できる範囲でよいから、できることを見つけ、とても小さなことでも楽しむことを忘れないで欲しい。

半歩でも前へである。